「選挙民は力ではなく道理を愛せ」―尾崎咢堂言行録(2)
前回に引き続き、尾崎行雄(咢堂)言行録を掲載する。
民主政治においては、有権者(選挙民)のあり方が、その国の政党・政治家のあり方、ひいては国のあり方へと繋がる。その国の「民度」を上回る政治家は現れない。
政治に無批判・無関心でいることは、自らの首を絞めるに等しい。民主主義は厳しい制度である。
かつて尾崎は「国を活殺(かっさつ)するは国民にあり」と言った。活かすも殺すも国民次第というわけだ。尾崎は常に、有権者のあり方の大切さを説き続けていた。
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選挙民は「力」ではなく「道理」を愛せ
我が国現在の選挙界を風靡(ふうび)する傾向は、道理に傾聴する立憲思想にあらずして、「力」に屈服する封建思想である。「道理はあっても少数ではだめだ」「金がなくてはだめだ」「政権を得なければだめだ」「自分の地方さえよくなればよい」「国家経済の都合はどうあろうと、無理にも早く鉄道を引いてほしい。学校を建ててほしい。道路・港湾を修築してほしい」「議会で横車を押し切る力のある多数党に投票せねばならぬ」―これが我が選挙民多数の投票心理であるようだ。
国家全体の上から、事の緩急得失も考えずに、各地方競って国費の分捕りを要求すれば、全国に亘り続々不急の事態が起こって、租税の増徴を必要とするに至り、結局自分の負担を重くする事になる。この明白な道理を弁(わきま)えた選挙人なら、決して現在行なわれるような思想によって、あんな自縄自縛(じじょうじばく)に等しい投票はしない筈だ。
善かれ悪かれ、政党は選挙の種板に映写された選挙人の写真である。選挙民が道理にかなった政治を要求する心、不正不義を蛇蝎視(だかつし)する心をもって投票を行なえば、政党もまた同じ心をもって、議院の内外に行動せざるを得ない。…即ち選挙民が「道理」を愛し、不正不義を憎めば、政党は善事をなし、正道を踏むの公党となり、選挙民が無理でも通す「力」を愛すれば、政党は勢い悪事をなすところの朋党私党に堕さざるを得ない。
以上、『政治読本』(1925年・大正14年)より抜粋
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民主政治においては、有権者(選挙民)のあり方が、その国の政党・政治家のあり方、ひいては国のあり方へと繋がる。その国の「民度」を上回る政治家は現れない。
政治に無批判・無関心でいることは、自らの首を絞めるに等しい。民主主義は厳しい制度である。
かつて尾崎は「国を活殺(かっさつ)するは国民にあり」と言った。活かすも殺すも国民次第というわけだ。尾崎は常に、有権者のあり方の大切さを説き続けていた。
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選挙民は「力」ではなく「道理」を愛せ
我が国現在の選挙界を風靡(ふうび)する傾向は、道理に傾聴する立憲思想にあらずして、「力」に屈服する封建思想である。「道理はあっても少数ではだめだ」「金がなくてはだめだ」「政権を得なければだめだ」「自分の地方さえよくなればよい」「国家経済の都合はどうあろうと、無理にも早く鉄道を引いてほしい。学校を建ててほしい。道路・港湾を修築してほしい」「議会で横車を押し切る力のある多数党に投票せねばならぬ」―これが我が選挙民多数の投票心理であるようだ。
国家全体の上から、事の緩急得失も考えずに、各地方競って国費の分捕りを要求すれば、全国に亘り続々不急の事態が起こって、租税の増徴を必要とするに至り、結局自分の負担を重くする事になる。この明白な道理を弁(わきま)えた選挙人なら、決して現在行なわれるような思想によって、あんな自縄自縛(じじょうじばく)に等しい投票はしない筈だ。
善かれ悪かれ、政党は選挙の種板に映写された選挙人の写真である。選挙民が道理にかなった政治を要求する心、不正不義を蛇蝎視(だかつし)する心をもって投票を行なえば、政党もまた同じ心をもって、議院の内外に行動せざるを得ない。…即ち選挙民が「道理」を愛し、不正不義を憎めば、政党は善事をなし、正道を踏むの公党となり、選挙民が無理でも通す「力」を愛すれば、政党は勢い悪事をなすところの朋党私党に堕さざるを得ない。
以上、『政治読本』(1925年・大正14年)より抜粋
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